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諷刺の精神

─花田清輝

Seibun Satow

 

「文献や年代記を拒否し、虚偽以上の虚偽だけに私の視野をかぎるということだが、冒頭において私の宣言した方法であった。この方法は、あくまで貫かなければならない」。

花田清輝『鏡のなかの言葉─レオナルド』

 

1. Antonius zur Predig

Die Kirche findt ledig,

Er geht zu den Flüssen,

Und predigt den Fischen;

Sie schlagn mit den Schwänzen,

Im Sonnenschein glänzen.

 

2. Die Karpfen mit Rogen

Sind all hieher zogen,

Haben d' Mäuler aufrissen,

Sich Zuhörens beflissen:

Kein Predig niemalen

Den Karpfen so gfallen.

 

3. Spitzgoschete Hechte,

Die immerzu fechten,

Sind eilend herschwommen

Zu hören den Frommen:

Kein Predig niemalen

Den Hechten so gfallen.

 

4. Auch jene Phantasten

So immer beym Fasten,

Die Stockfisch ich meine

Zur Predig erscheinen.

Kein Predig niemalen

Den Stockfisch so gfallen.

 

 5. Gut Aalen und Hausen

Die Vornehme schmausen,

Die selber sich bequemen,

Die Predig vernehmen:

Kein Predig niemalen

Den Aalen so gfallen.

 

6. Auch Krebsen, Schildkroten,

Sonst langsame Boten,

Steigen eilend vom Grund,

Zu hören diesen Mund:

Kein Predig niemalen

Den Krebsen so gfallen.

 

7. Fisch große, Fisch kleine,

Vornehm' und gemeine

Erheben die Köpfe

Wie verständige Geschöpfe:

Auf Gottes Begehren

Antonium anhören.

 

8. Die Predigt geendet,

Ein jedes sich wendet,

Die Hechte bleiben Diebe,

Die Aale viel lieben.

Die Predig hat gfallen,

Sie bleiben wie alle.

 

9. Die Krebs gehn zurücke,

Die Stockfisch bleiben dicke,

Die Karpfen viel fressen,

Die Predig vergessen.

Die Predig hat gfallen,

Sie bleiben wie alle. 

(Des Antonius von Padua Fischpredigt”)

 

 マーク・ブローグは、『ケインズ以前の100大経済学者』において、ソースタイン・ブンデェ・ヴェブレンについて次のように述べている。

 

 ソースタイン・ヴェブレンは、英文学にとってのジョナサン・スウィフトの存在に相当する。つまり、どちらも風刺技術の名手なのである。効果的な風刺文には、それが伝える中心思想が暖昧であることが肝要である。読者は著者が大まじめであるのか、ただふざけてからかっているだけなのかをはっきりと知るべきではない。スウィフトの『がリバー旅行記』にたしかにあらわれているその特性は、ヴェブレンの『有閑階級の理論』(一八九九)、『製作者本能論』 (一九一五)、『アメリカの高等学術』(一九一八)、『不在所有者制』 (一九二三)、それにいく編もの評論にも見出すことができる。事実、いままでになく慣習にのっとった学問的な書物『営利企業の理論』(一九〇四) を除けば、彼の著作にはすべてその特性が備わっているのである。

 このような諸作品のどれをひもといても、近代産業社会における生活が「金銭雇用」と「産業雇用」聞の、「営利企業」と「機械過程」聞の、「販売術」と「実用性」聞の、(要するに金もうけと商品生産との聞の)対極的闘争の結果であるという考え方がみつかる。資本主義の下では、有産階級対無産階級ではなく、実業家対技術者の階級闘争がある。金銭のからんだ思考習慣が私的取得物を守るという名目で、銀行家、ブローカー、弁護士、経営者を団結させる。それとは対照的に、機械に関する訓練が工業労働者と、とくに彼らを監督する立場にいる専門技術家や技士たちを結集させるのである。

 右記のような用語を使って、ヴェブレンは近代産業文明を描写した。彼の作品を読んでいると、なにかが説明されているような気がする。しかし結局のところ、彼が伝えんとするところは、暖昧なままなのである。ヴェブレンは、市場メカニズムの基本的批評やテクノクラート的革命を要求しているようにはみえるが、彼はとくに技士たちが、その制度を引き継いで運営していけるという考えだけは注意するようわれわれに警告を与えており、彼が実際なにをいわんとしているか疑わざるをえない。しかし、彼を正確におさえたいという願望は、多分要点を見失わせることになろう。つまるところ、それは風刺文なのだから、読者の目を聞かせるものであって、読者の心を閉じさせるものではないのである。

 

 同様のことが花田清輝にも言える。彼は「風刺技術の名手」であり、日本の批評において、英文学のジョナサン・スウィフトや経済学のソースタイン・ヴェブレンの存在に相当する。「効果的な風刺文には、それが伝える中心思想が暖昧であることが肝要である。読者は著者が大まじめであるのか、ただふざけてからかっているだけなのかをはっきりと知るべきではない」。花田の作品は「風刺文なのだから、読者の目を聞かせるものであって、読者の心を閉じさせるものではないのである」。

 

 一義的なものとしての近代の意味にうたがいをなげるという目的には、伝記でも歴史でも思想史でもない小説というこの形式は、かなっている。ああも見えるし、こうも見える、しかしまたああも見えるのだ、という風に、同じ事件の意味をちがう仕方で見てゆくこの記述の方法は、まず資料の確定をして、その上で資料にもとづいて推論をするというロジック(論理) の方法とはちがう。ああいえば、こういうという日常生活で使われるレトリック (修辞学)の方法力、思想史のレヴェルで使いこなされているのだ。

 狂信者のもつ説得力は、彼が自分の駆使するレトリックを、ロジックであると倶信して、相手にせまるところから来る。そして相手を、その誤信の中にひきずりこんでしまうことで説得に成功する。それとちがって花田の方法は、レトリックをロジックと混同するところがない。あくまでもロジックから区別されたレトリックとして、自覚的に展開された思想であり、そういう思怨として、日本の思想史に独自の位置を占める。

 狂信者が、「こう考える他にない」とつよく相手にうったえかけて、現実にたいするただ一つの視座に相手をしばりつけようとするのと対照的に、花田は、「ああも見えるし、こうも見える」と言ってのらりくらりと見方をかえてみせることをとおして、現実にたいして人間のもちやすい固定した視座から相手を自由にしようとする。

(鶴見俊輔『花田清輝論』)

 

 答えは一つではない。結論を急ぐよりも、条件を考慮し、長短を照らし合わせるのが科学的姿勢であろう。言うまでもなく、科学にも時代に応じたトレンドがある。一九世紀から二〇世紀前半にかけては、教会の公認してきた必然性を覆す別の必然性の根拠付けの役割を科学は担わされている。イヴァン・ペトロヴィチ・パブロフは条件反射の実験の際に犬の個体差に気がついていたが、研究目的が一般法則を見出す点にあったため、それは軽く扱われている。覚えの速い犬もいれば、遅い犬もいる。身につけていられる犬もいれば、忘れっぽい犬もいる。けれども、重要なのは条件反射が披験の犬全般に見られるという点である。しかし、一九六〇年代になると、個体差に研究の主眼が移動し、一般法則だけでなく、多様性に関心が拡大している。レトリックのロジックへのすり替えは初期条件を都合よく固定した誘導にすぎない。一つの結論を絶対と提示する輩には用心しなければならない。自然的・人工的・社会的現象のほとんどは非線形に属しているため、ほんのわずかな初期条件の違いによってまったく異なった結果がもたらされる。だから、マクロ経済学では、こう言われる。「一〇〇人の経済学者がいれば、一〇一通りの政策がある。ジョン・メイナード・ケインズが二つ出す」。

 スウィフトの活躍した頃の英国は「諷刺の黄金時代」と呼ばれる。それは、同時に、「批評の黄金時代」でもある。当時の批評は同時代的な作品の解説ではなく、諷刺として表わされている。批評と他の文学ジャンルとの境界は、国民国家以前の国境線同様、明確ではない。規則は、「暗黙のルール」という言葉があるように、顕在化しているだけでなく、潜在しているものも多いが、諷刺作家は、しばしば、この潜在的規則を顕在化させ、人々に笑いを喚起する。一七世紀後半から一八世紀前半のイギリスはまさにそういう人を食った文学者が席巻する。そのジョナサン・スウィフト、それに忘れちゃならないジョン・ドライデンにアレクサンダー・ポープ、ジョン・ゲイ、ダニエル・デフォー、ウィリアム・ホガース、ローレンス・スターン、エプレイム・チェンバース、サミュエル・ジョンソンなど挙げればきりがない。

 「諷刺(Satire)」の語源には二説あるとジョン・ドライデンは、『諷刺の起源と発展に関する論考』(一六九三)において記している。一つはギリシア神話の「サテュロス(Σάτυροι)」に由来する説である。サテュロスはディオニュソスの従者であり、上半身は人間、下半身は山羊の姿をしている。山羊は多産のため、西洋で、その暗示する意味は「好色」である。諷刺は淫らな「カーニバル」(ミハイル・バフチン)、あるいは何でもありの乱交パーティを体現している。

 もう一つはラテン語の「詰め込み(satura)」を語源とする説である。ありったけのものをおかまいなしに詰めこんだのが諷刺であり、その本質は、ドライデンによれば、「混合(Mixture)」あるいは「ごった煮(Hotchpotch)」である。

 サミュエル・ジョンソンがジョン・ドライデンを「英国批評の父」と呼んでいるように、どこまで本当かわからないこの二つの起源が混在する諷刺から批評が生まれる、と言うよりもそうした諷刺として批評は産声を上げる。ドライデンの生涯は、花田が論じたジョナサン・スウィフト同様、生きられた諷刺である。彼は、形勢を読み、転向を繰り返している。それを根拠に彼を批難するとしたら、真に素朴だと言わざるを得ないだろう。しなやかさとした高さは諷刺に欠かせない。サテュロスが卑猥な笑みを見せる猥褻な作風で知られる彼が「父」であるとすれば、おまけにどちらが母かはDNA鑑定しても不明なままで、批評はいかがわしくならざるを得ない。それは「ごった煮批評」、すなわち「ハッチポッチ・クリティシズム(Hotchpotch Criticism)」と呼ばねばならない。

 この二つの要素を持った諷刺の原型は紀元前三世紀メニッポスに遡る。しかし、不幸にも、彼の作品は題名以外現存していない。幸運にも、ルキアノスが彼を主人公として諷刺作品を書いており、いかに愉快な人物だったかを伝えている。しかし、こうした曖昧な胡散臭さこそ諷刺にふさわしい。諷刺の黄金時代の作品は「メニッポス的諷刺(Menippean Satires)」と総称できる。

 

 そのとき驚いたのは、戦争中にこれだけのものが、それも右翼の当東方会の近くに身を潜めながら書かれていたことである。なお、遠山啓も花田清輝の同時代人であり、ぼくにはどこか、あの時代の人として重なるところがある。

 以来ぼくは、レトリックというものは、どんなメディアにでも可能なものでなげればならぬ、という思いをいだき続けている。たとえば、「左翼」にしか通用しない、「左翼」のメディアだけてものを書く、そんなのはつまらない。それにまた、右翼のメディアに接する右翼的な人に、なにかを伝えられなくて、「左翼」であるとみずからを位置づけるなどとは、ばかばかしい話だ。

 レトリックという点では、引用文の使い方のうまさについて、花田以上のものを知らない。ときには、その引用なるものが、架空の文書からの架空の引用であったりしたことは、よく知られている。地の文の中に、引用の文が入るときの効果、そうした計算の上にそれはなりたっている。

 だれかに遠慮して引用するのではなく、まして、博識をあとづけるためではない。文章に効果がなければ、引用しないで地に入れてしまったり、引用文をひそかに作りかえていることもあるかもしれない。著作権などという野暮のなかった時代ではあるし、アカデミズムななどを気にする必要もなかったころである。しかしぽくは、文章としては、こちらのほうが文化的に正当だと考えている。源氏物語でもカンタベリー物語でも、そうしたものだったはずだ。

(森毅『花田清輝「復興期の精神」』)

 

 諷刺はミメーシスから生じる。それは対象の固有性を把握していなければ有効ではないため、その本質、すなわちリテラシーを批判的に分析する必要がある。批評家にも、諷刺作家同様、俳優の才能が不可欠である。逆に、諷刺によって固有性が体感できる以上、批評は諷刺の能力・手順を踏まえていなければならない。リテラシー読解が批評、より正確にはハッチポッチ・クリティシズムの基本的な方法論である。

 諷刺は、いずれも重なり合う場合が少なくないけれども、バーレスク・パロディ・パスティシュの三つに大別できる。「バーレスク(Burlesque)」はイタリア語の「滑稽」に由来し、茶化す目的で対象を模倣する手法であり、そこにはリスペクトはなく、悪意と嘲笑がある。次の「パロディ(Parody)」はギリシア語の「別の歌」を語源とし、同じように捩りであるが、模倣している自分自身も笑いの対象としている点で、バーレスクよりも礼儀正しい。なお、ヨハン・セバスチャン・バッハが世俗カンタータを教会カンタータに再利用していることも研究者たちはそう呼ぶ。最後の「パスティシュ(Pastiche)」はイタリア語の「ごちゃ混ぜ」から派生し、対象よりも、模倣の技法自身に最も関心があり、複数の作品からの模倣を寄せ集めていることが多く、「冷たいパロディ(Cold Parody)」と言ってもよい。どれであっても、模倣による変容を具現する点では共通している。

 諷刺のミメーシスの手法は再現ではなく、記号化である。対象がその他のものと異なる固有性を記号によって描写する。諷刺はヴァーチャル・リアリティ、ヴァーチャリティの追求である。「ヴァーチャル(virtual)」の反対語は「リアル(real)」ではない。「名目(nominal)」がそれに相当する。名目の類義語は「仮想(supposed)」や「擬似(pseudo)」である。前者は仮に想定したものであり、後者は外見は似ているが、本質的には異なるものを指す。また、リアルの反意語は、「実数(real number)」と「虚数(imaginary number)」の関係が示している通り、「虚(imaginary)」である。ヴァーチャルは、むしろ、現実の類義語であり、それは表面的にはそう見えないけれども、本質あるいは効果において現実を感じさせるものを意味する。諷刺はこのヴァーチャリティの創作活動である。

 もっとも、今日のデジタル技術に立脚したヴァーチャリティは遠近法を明暗によって見せている。それ加色法(加法混色)の世界である。モニターは、ブラウン管にしろ、液晶にしろ、プラズマにしろ、発光して像を形成する。そこで示される遠近法は毛様筋の伸縮による焦点の調整ではなく、瞳孔の開閉によって感じられているものである。見続けていれば、眼は疲労し、視力低下の危険性がある。光はR()G()B()の三原色によって構成され、それらをすべて混ぜ合わせれば、白くなる。デジタルがそうした光の世界だとすれば、アナログは色の世界である。デジタル・カメラは対象の光を読みとるため、夜であっても、わずかにでも光ってさえいれば、特に光源を準備しなくても、対象を撮れる。他方、アナログ・カメラは反射光をフィルムに写しとる。フィルムの感度の差はあるが、光源がなければ、撮影はできない。色は減色法(減法混色)に従っている。赤・青・黄の三原色をすべて混入させれば、黒くなる。RGBではなく、シアン()・マゼンタ(青)・イエロー(黄)・ブラック(黒)の四色を重ね合わせてつくり出す世界である。映画のために、夜を撮影しようとするなら、昼間に、フィルターを入れて、絞り(F)を絞らなければならない。もしデジタル・カメラで同様の撮影をすれば、出来上がったシーンは白くなってしまう。この場合のカメラは映画撮影用に限定している。デジタル一眼レフ・カメラとコンパクト・デジタル・カメラとでは、仕組みが違うので、必ずしもこの限りではない。今のヴァーチャリティには、真の意味で闇はない。しかし、それは、現代社会に真っ暗闇がないように、今という電気の世界の本質を表象しているとも言える。光の混合加算により、社会に白い空白が生まれているというのに、「心の闇」や「社会の闇」、「アンダーグラウンド」という比喩はあまりにも時代錯誤すぎる。「社会のベゾルト-ブリュッケ現象」や「社会のブローカー・スルツェ現象」など光にまつわる効果を譬えに用いるべきだろう。

 なお、GMPなどのペイント系ソフトでは、HSV(色相・彩度・明度)モデルが採用されている。また、テレビのララー放送では、それ以前のモノクロ放送との互換性のため、YCbCrモデルが使われている。Yは輝度、CbCrはそれぞれ青(B)の差分、赤(R)の差分を表す。

 

(Alt Solo)

O Röschen rot!

Der Mensch liegt in grösster Not!

Der Mensch liegt in grösster Pein!

Je lieber möcht ich im Himmel sein!

Da kam ich auf einen breiten Weg.

Da kam ein Engelein und wollt mich abweisen.

Ach nein,ich liess mich nicht abweisen!

Ich bin von Gott und will wieder zu Gott!

Der liebe Gott wird mir ein Lichtchen geben,

Wird leuchten mir bis in das ewig selig Leben.

 (Des Knaben Wunderhorn")

 

 諷刺は記号によって構成され、作者と読者はその記号を通じてメッセージを送受信する。規則を了解しながら、それを創作し、受容する。メノンのパラドックスが生きられている。一九世紀の英国の小説家ジョージ・メレディスが「何を笑うか、どんな笑い声かで、その人間の洗練度がわかる」と言ったように、受信側もそのメッセージを受け取る際に、自分自身を記号として他の人に送信してしまう。諷刺は、そのため、記号の規則が通用しない関係では機能し得ない。

 諷刺が真に表象しているのはルールである。完成度が高いほど、ISOのように、記号は通用する世界が広く、より普遍的になる。ISOを無視して、壁に「消火器」と記された標識は、日本の漢字を読めないものにはそれが何を指し示しているか理解できない。こうした記号は機能が低い。普遍性が高いほど優れた記号である。

 言うまでもなく、ルールを享有しているかどうかうかを意識化するために、意図的に、限定的なルールに基づく諷刺を用いる場合もある。

 しかし、一九世紀に入り、神の死が進展すると、記号に代わって、再現のミメーシスが求められるようになる。文学ジャンルは細分化・専門化し、境界線が明確化され、その内部での同一化志向が強調される。標準化された国民は、広範囲な知識や古典的な教養がなくても楽しめる作品を欲しがる。そんな同時代人に向かって文学や芸術が生産される。作品が読者を選ぶのではなく、読者が作品を選り好みする時代が到来している。こうした変化の中、小説が文学の主流派に躍り出る。それと裏腹に、諷刺や批評は非主流派の地位に置かれることとなる。

 海野弘は、海野弘=小倉正史の『現代美術』に所収されている「〈モダン・アート〉とはなにか」において、近代の批評家の役割について次のように述べている。

 

  階級的保護を失い、現代の商品社会、広告社会に投げこまれたモダン・アートは、商品化を避けることができず、その差異性を示すためのことば(宣言広告)を持たなければならなかった。モダン・アートの特徴である、ことばの重要性をそれは予告している。美術がこれほどたくさんのことばを持ったことはなかった。美術があって、それを語ることばがくるのではなく、むしろ、まずことばが発せられ、そのことばにうながされて、美術作品があらわれるといっていいほどだ。

 このような、ことば(観念、記号)の先行性からして、批評がそれまでとは比較にならないほど大きな影響力を持つようになる。批評家はモダン・アートの秘密をにぎる権威として振舞うようになる。モダン・アートは難解であり、一部のエリートによって解読できるという神話がつくりあげられる。

 

  芸術は、階級的保護を失うと、時代の、普遍的な、支配的様式であることをやめて、諸〈運動〉に解体する。モダン・アートは、〈運動〉という様態をとるのである。

 

 神の死は芸術を「運動」とする。芸術家の任務はその運動の意図を宣言し、前衛として前線で突撃することである。しかし、最前線で活動する前衛部隊の状況は銃後には伝わりにくい。運動を効果的に進めるには、「彼らは一体何をしているのか?」という疑問に答えるメッセンジャーが要る。批評家はそうした従軍記者である。

 思想や潮流の「秘密をにぎる権威として振舞う」批評家の姿を「様々なる意匠」と批判して登場したのが、日本では、小林秀雄である。彼は、『アシルと亀の子U』の中で、「批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシにして自己を語る事である」と宣言する。批評は対象を通じて近代的・一元的な主観を告白する表現へと移行する。これにより、批評は前衛運動の従属から解放される。それどころか、通信・輸送手段が発達を遂げるにつれ、戦争で後方が重要となったように、運動を指導する地位にさえ向上し、批評家間の論争が文学を活発化する。

 近代日本文学の批評は小林秀雄の流れを汲む系譜を本流としている。彼の宣言は批判的に継承され、それぞれに傾向がある。心理学研究のアプローチで譬えるなら、江藤淳は精神病理学的・臨床的アプローチ、柄谷行人は相関的・測定論的アプローチ、吉本隆明は実験的・操作的アプローチとなろう。八〇年代以降の批評では第二のタイプが中心である。

 花田清輝の批評は、この本流から見れば、傍流であろう。彼は諷刺の批評、すなわちハッチポッチ・クリティシズムを復活させる。それは前近代的・多元的な主観の復権でもある。小林秀雄にとって、「他人の作品」は「ダシ」であるが、諷刺的批評家には、「ごった煮」である以上、スパイスであり、その調合が決め手となる。「つまり、ぼくの好みとしては、見ばえのしそうな具はなるべくやめて、ほとんど材料のないようなものがよい。そのかわり、隠し味のほうは存分に贅沢して時間をたっぷりかける。そして、スパイスとその調合を楽しむ。それがつまりは、ぼくの美学でもある。表より裏に金と時間をかけたほうがよいし、スパイスの芸にグルメ道楽をかける」(森毅『さりげなく教養の隠し味を利かせられたら一人前』)。

 

 戦時中、私は少々しゃれた仕事をしてみたいと思った。そこで率直な良心派のなかにまじって、たくみにレトリックを使いながら、この一聯のエッセイを書いた。()その主題というのは、ひと口にいえば、転形期にいかに生きるか、ということだ。したがって、ここではルネッサンスについて語られてはいるが、私の眼は、つねに二十世紀の現実に──そうして、今日の日本の現実にそそがれていた。そのような生まなましい現実の姿が、いくらかでもエッセイのなかに捉えられていれば、うれしい次第だ。個人のオリジナリティなど知れたものである。時代のオリジナリティこそ大切だ。

(花田清輝『復興期の精神』初版跋)

 

 現在、和食は香辛料をあまり使わない料理と思われているが、それが最も発展を成し遂げた近世では事情が違っている。当時の料理本を開くと、胡椒や八角、シナモン、クローブなどのスパイスが多く用いられていたことがわかる。大陸や南蛮との貿易が盛んで、その影響を強く受けている。

 それは花田が「日本のルネッサンス」と呼ぶ時代である。近世は兵農分離が進み、武士は都市に居住して、農村を支配し始める。農村を実質的に管理したのは農民身分の村役人であるが、武士は統治するための法令を文書として作成している。それに伴い、自治権の認められた農村の人々も、簡単な読み書き算術を習得するようになる。文書主義はこの頃から本格化したのであり、近世はこの意味でも転形期である。支配層と民衆の間の乖離が農村で生じ始め、共有されていた笑いの文化も変容していく。

 小林秀雄流の批評だけを批評と信じているものにとって、「批評するとは他者を語る事である。自分の作品をダシにして他者を語る事である」とでも言うべきハッチポッチ・クリティシズムは批評には見えないだろう。「人の味の好みを観察していると、新しい味に関心を示したがる人と、いつもの味で安心したがる人がいるようだ。ぼくの場合は前者のようだが、このあたりもまた、変化と安定の匙加減の問題だろう。変化といっても珍奇であればよいわけでもないし、安定といっても変化を拒否して閉じこもってしまったのではつまらない。夏も冬も同じ味ではすまないように、時代に沿いながら、それでも自分の味を出していくこと。面倒なようでも、それが生きていくということなのだろう」(森毅『「スパイスの利かせ方」がうまい人、へたな人』)

 この諷刺の批評は連続的な受け継がれと言うよりも、非連続的な突然変異として登場しているように見える。花田を継承した主な批評家は寺山修司であり、森毅である。後者はその影響を認めているが、前者に関しては、その関係ははっきりとしない。

 

(Tenor Solo)

Wenn nur ein Traum das Leben ist,

Warum denn Müh und Plag?

Ich trinke, bis ich nicht mehr kann,

Den ganzen, lieben Tag!

 

Und wenn ich nicht mehr trinken kann,

Weil Kehl und Seele voll, So tauml'

ich bis zu meiner Tür

Und schlafe wundervoll!

 

Was hör ich beim Erwachen?

Horch! Ein Vogel singt im Baum.

Ich frag ihn, ob schon Frühling sei,

Mir ist als wie im Traum.

 

Der Vogel zwitschert: Ja!

Der Lenz Ist da, sei kommen über Nacht!

Aus tiefstem Schauen lausch ich auf,

Der Vogel singt und lacht!

 

Ich fülle mir den Becher neu

Und leer ihn bis zum Grund Und singe,

bis der Mond erglänzt Am schwarzen Firmament!

 

Und wenn ich nicht mehr singen kann,

So schlaf ich wieder ein,

Was geht mich denn der Frühling an!?

Laßt mich betrunken sein

(Li-Tai-Po Der Trunkene im Frühling”)

 

 しかし、諷刺が文学の表舞台で衰退していたからと言って、それが忘れられていたわけではない。むしろ、諷刺は民衆文化としてより地下深く根を張っている。思想は絶頂期にではなく、一時的な流行が去った後に、衰退期に浸透する。

 

 宗教のばあいでも、芸術のばあいでも、思想のばあいでもそうであるが、それらのものが地下深く真に根をおろすのは、運動の興隆期ではなく、かえって、衰退期であって、プロレタリア文学運動もまた、その例外ではないということは、いま、ここで、あらためてことわるまでもあるまい。それが、どうしてもそうおもえないようなものは、運動の興隆期には、極左的言辞を弄し、形勢不利とみるや否や、いちはやく口をぬぐって、保身の術を講じたような連中だけだ。

(花田清輝『プロレタリア文学批判をめぐって』〉

 

 東西冷戦下、社会主義リアリズムを公認する東側の諸国で、「アネクドート」と呼ばれる口承による体制への諷刺が民衆の間で流通している。それは民衆の集団的無意識が形成した文学である。プロレタリア文学はそうしたアネクドートにほかならない。

 

質問「現実の社会主義は何を示しているのでしょうか?」

回答「現実の社会主義は、自分の中にすべての先行する社会的・経済的携帯を具現しています──原始共同体からは生産方式、奴隷所有社会からは自由の原則、封建社会からは階級的特権、資本主義からは解決できぬ矛盾」。

(川崎浹『ロシアのユーモア』)

 

 資本主義は近代的所有権に立脚している。近代以前の所有権は、入会権が端的に示している通り、複合的・重層的である。それを一元化して、近代的な財産権を基本的人権に据えて、近代体制が確立されていく。資本主義の売買は、所有権が一元的になって初めて成立する。一元的な所有権という点では、一般的には社会主義政策と見られている企業や銀行、土地の国有化も近代主義の一環であり、資本主義への根本的な批判とはならない。

 しかし、諷刺は近代以前から続くジャンルであり、一元的な著作権を主張しない。告白が一元的著作権を表明しているとすれば、集団的無意識を分割したり、特定の誰かの著作物と見なせないように、それは入会権である。諷刺は近代=資本主義を最もマルクス主義的に批判している。

 歴史的に、諷刺の文化の全体像は見えにくい。と言うのも、それが民衆文化として生きていた場合が少ないからである。文献の史料は、概して、ヒエラルキーの上層によって記されている。そもそも、近代以前の民衆の識字率は、自分の名前の読み書きのレベルでさえ、高くなく、何かを書き残すことは非常に困難である。諷刺はあらゆる階層の人々が出会う場であり、社会の集団的無意識の表象である。諷刺の黄金時代は知識人も民衆文化と通じていたことを暗示する。諷刺が文学作品の主流ではなくなったのは、エリート層の民衆文化への共感が失われたからである。

 

 しかし、これらの問題点とは別に、いっそう根源的な問題が横たわっている。それは、これまでの中世文化史やルネサンス文化史が知識人向けの著作や社会上層の受容する芸術を主要な素材にして議論を組み立てており、その意味でエリート文化の歴史であって、民衆文化を十分に視野に入れていないことである。現在では、一五、一六世紀までの西欧の文化史を民衆文化を中心としてくみなおすと、どのような歴史像が見えてくるのか、中世やルネサンスといった区別はそこでどのような意味を持ちうるのか、という問いかけがなされているのである。もちろん、民衆文化には十分な史料はないので相当大胆な仮説に頼らざるを得ないのであるが。

 この問題については、ソビエト・ロシアの文学史家であったニコライ・パフチーンの仮説がよく知られている。彼は中世文化に、二面性を見る。ひとつは教会や王侯の公的活動に関する文化で、厳粛さと権威主義によって特徴づけられる。これに対するのが民衆の祝祭文化で、あけすけの冗談、教会権威のパロディ化を含む笑いの伝統によって特徴づけられる。聖職者や貴族の中にもこうした民衆的笑いの文化への共感が一五、一六世紀までには生きていた。16世紀にはエラスムスやラブレーなどいくらかのルネサンス人文主義者が、民衆の笑いを自分の作品に取り込んだ。しかし全体としてルネサンスにおける古典趣味は、民衆の笑いを粗野で下品なものとして排撃する傾向を強めた。一七世紀の知識人は、もはやラブレーすら理解できなくなる、というのである。

 このようなバフチーンの仮説には、その後多くの歴史家が強い関心を示した。何人かの論者が、中世ではエリートの文化と民衆文化が出会う場を持っていたのに対して、近世ではエリートによる民衆文化の抑圧が強まるとし、ルネサンスをこうした意味での転換期と捉えている。こうした見取り図への賛否は別として、ルネサンスの芸術文学の階級的性格を考えておくことは不可欠であろう。

(江川温『ヨーロッパの歴史』)

 

 花田の諷刺の批評は、史料の乏しい民衆文化から文化史を構成する際の仮説として機能する。彼のマルクス主義が発揮されているのは政治的主張以上に、この方法である。花田が何を語っているかではなく、いかに体現しているかを読むべきである。彼の仮説を実証的に確認することは難しいし、また対象を学問的に知ろうとするには向かない。ものの見方を広げるのが目的であって、レトリックを固定したロジックにすり替え、自説を権威として読者に押しつけようとしているわけではない。

 

 問題は、非暴力的な権威によって、暴力的な権力を抑制し、四海波静かな時代をつくりあげることにあるのであって、公家的なものと武家的なものとに、道徳的な観点から、二者択一の態度をもってのぞむことなど、てんで新井白石は考えてみようともしなかったのではなかろうか。(略)むしろ、わたしには、かれら三人が、公家的なものと武家的なものとが、天皇親政といったようなかたちで統一され、暴力的な権力が、非暴力的な権威を利用することによって、みずからを強化するといったような事態をひきおこすことを、なによりおそれていたのではあるまいかという気がしてならないのだ。

 非暴力的な権威は、暴力的な権力と対立しているばあいにのみ、その存在理由がある。明治維新のさい、もしも天皇が、明治維新のいわゆる「統治権の総攬者」といったような役割をひきうけることをあくまで頑強に拒否していたなら、いまもなお、おのれの非暴力的な権威によって、暴力的な権力を、相当の程度、牽制することができたかもしれないのだ。(略)しかし、そういう条文の存在が、いよいよもって、天皇の非暴力的な権威を失墜させることになるのではなかろうかと、いまだにわたしは、多少、気がかりでないこともない。

(花田清輝『公家的なものと武家的なもの』)

 

 花田が執筆活動において「芸」を口にしていたことはよく知られている。告白と諷刺の違いは演技とこの芸のアナロジーで語ることができる。演技が近代以降の演劇を構成しているとすれば、芸は前近代に属している。芸は古典演劇の方法論であり、観客は役者自身と劇中人物を同時に見る。助六を演じる二代目市川団十郎は、助六でありなおかつ、あくまでも二代目市川団十郎である、役者の動作には記号的意味がこめられ、観客もそれを知りつつ、見ている。これは近代以前のオペラにも共通している点である。一方、演技において、俳優は、原則的に、劇中人物になりきりっている。『欲望という名の列車』の舞台にいるのはスタンリーであって、マーロン・ブランドではない。近代演劇は舞台から芸を追い出し、演技による一元的な世界構築を目指している。記号性は舞台からできる限り排除され、俳優は、スタニフスラフスキー・システムが提唱するような近代的リアリズムに従って、役を再現しなくてはならない。観客が視線を注いでいるのは別世界的な舞台ではなく、自分たちと同じ等身大の人間が悩み苦しむ社会である。このように、告白は演技、諷刺は芸に相当する。

 

 ところで、問題は、淀五郎が、月を、灯火入りの月としてとらえている点についてであるが、実を虚としてとらえているからといって、行往座臥、一刻も、役者としての自分を忘れることのできない芸道熱心な前のタイプの名人と、大根役者である淀五郎とを、同一視してはならないことはいうまでもなかろう。いわんやそのばあい、淀五郎は、役者としての自分をコキおろすために──役者としての自分が、批評家としての自分にたいして、手も足も出なくなった顛末を、洗いざらい、ぶちまけるために、わざと品川の不心中の背景を、大道具や小道具や書き割りとしてとらえているのである。ということは、すなわち、さきにわたしのいったように、淀五郎が、テレていることを意味するのではあるまいか。おもうに、『烏辺山心中』のおまん・源五兵衛の一対と、おまつ・七兵衛の一対とが、ついにテレることを知らないまま、どこまでも役者としての自分をつらぬきとおすことができたのは、それらの一対が、すれちがっただけであって──わずかに後の一対が、前の一対を、コッソリ、ながめただけであって、おそめ・淀五郎の一対と、おふし・金蔵の一対のように、互いに牽制し合うことによって、心ならずも役者としての自分を、批評家としての自分に、切り換える必要がなかったからではなかろうか。かならずしもわたしは、テレることを知らない名人や上手よりも、テレることを知っている大根のほうを支持するつもりはないが──しかし、実を虚としてとらえるにせよ、虚を実ととらえるにせよ、つねに役者としての自分に陶酔し、役になりきっている前者よりも、いつも批評家としての自分を手ばなさず、役者としての自分が、批評家としての自分によって、いため付けられている後者のほうに、まだしも芸らしい芸を──近松門左衛門のいわゆる「実と虚との皮膜にある」芸と、身につける機会があるように思われてならないのだ。あるいは淀五郎にとっては、金蔵から、「お前さんのお姿は。」といって、穴のあくほどみつめられ、ハッとして、役者としての自分から批評家としての自分へ早替りをした瞬間が、芸らしい芸をわがものにするための糸口をつかむ千載一遇の機会だったかもしれない。

(花田清輝『俳優修行』)

 

 近代的演技の閉塞感を感じたアントナン・アルトーのような理論家は、前近代の「芸」を演劇の原点として見出そうとする。彼は、バリ島で、近代によって忘れ去られていた前近代の意義を発見する。それは優劣の問いではない。花田の試みは、こうした前近代は近代を通して脱近代と結びつける大胆かつ意欲的なプロジェクトである。

 坂口安吾は、『花田清輝論』(一九四七)で、そんな花田の批評が受け入れられないのではないかと次のように心配している。

 

 花田清輝の名は読者は知らないに相違ない。なぜなら、新人発掘が商売の編輯者諸君の大部分が知らなかったからである。知らないのは無理がないので、花田清輝が物を書いていた頃は、彼等はみんな戦争に行っていのだから。

 

 小説家には太宰治という才人があるが、いわば花田清輝は評論家のそういうタイプで、ダンディで才人だ。小説だと、まだ読者には分るけれども、評論となると却々分らないもので、たとえばポオの「ユウレカ」が日本に現れても、読者の大部分は相手にしないに相違ない。花田清輝はそういう評論家です。

 今度我観社というとことから「復興期の精神」という本を出した。マジメで意気で、類の少い名著なのだが、僕は然し、読者の多くは、ここに花田清輝のふぁんたじいを見るのみで、彼の傑れた生き方を見落としてしまうのではないかと怖れる。彼の思想が、その誠実な生き方に裏書されていることを読み落とすのではないかと想像する。この著作には「ユウレカ」と同じく見落とされ、片隅でしか生息し得ない傑作の孤独性を持っている。だから、花田清輝の真価を見たいと思ったら、もっと俗悪な仕事をさせてみることだ。つまり、文芸時評とか、谷崎潤一郎論だとか、そういう愚にもつかない仕事をやらせてみると分る。

 彼は戦争中、右翼の暴力団に襲撃されてノビたことがあった筈だ。

 戦争中、影山某、三浦某と云って、根は暴力団の親分だが、自分で小説を書き始めて、作家の言動に暴力を以て圧迫を加えた。文学者の戦犯とは、この連中以外に有り得ない。

 花田清輝はこの連中の作品に遠慮なく批評をくわえて、襲撃されて、ノビたのである。このノビた記録を「現代文学」へ書いたものは抱腹絶倒の名文章で、たとえばKなどという評論家が影山に叱られてペコペコと言訳の文章を「文学界」だかに書いていたのに比べると、先ず第一に思想自体に生きている作家精神の位が違う。その次に教養が高すぎ、又その上に困ったことに、文章が巧ますぎる。つまり俗に通じる世界が希薄なのである。

 だが、これからは日本も変る。ケチな日本精神でなしに、世界の中の日本に生れ育つには、花田清輝などが埋もれているようでは話にならない。

 

 これは、ミック・ジャガーがローリング・ストーンズのツアーの前座に使ったプリンスに対して発したコメントを思い起こさせる。諷刺の批評は、一八世紀の英国文学が示しているように、読み手に高いリテラシー能力を要求する。より学んでいこうという向上心のない読者には手に負えない。とらえどころがなく、誰にでも読めるような文学ではない。安吾の不安は、幸いにも、花田に関しては杞憂に終わる。森毅は、『ゆきあたりばったり文学談義』の中で、「戦後、ぼくが学生の頃の評論の二大スターは福田恆存と花田清輝でした」と言っている。花田は、福田恆存と並んで、五〇年代を最も代表する批評家である。比較のために言及すると、四〇年代は小林秀雄、六〇年代は吉本隆明、七〇年代は山口昌男、八〇年代は柄谷行人が批評家のスターであるが、それぞれその前の年代に優れた作品を書いている。けれども、不幸にも、「ケチな日本精神」が蔓延した九〇年代以降、メニッポス的諷刺の批評家現は埋もれてしまう。今、活字媒体で、花田を継承する批評をお目にかかることはない。そうした批評はロングテールとしてネットでしか読めない。そこで、枝葉が多く、一見何を言いたいかよくわからないが、「『ユウレカ』と同じく見落とされ、片隅でしか生息し得ない傑作の孤独性を持っている」ハッチポッチ・クリティシズムに出会えることは間違いない。

 

Ich bin der Welt abhanden gekommen,

Mit der ich sonst viele Zeit verdorben.

Sie hat so lange von mir nichts vernommen,

Sie mag wohl glauben, ich sei gestorben.

 

Es ist mir auch gar nichts daran gelegen,

Ob sie mich für gestorben hält;

Ich kann auch gar nichts sagen dagegen,

Denn wirklich bin ich gestorben der Welt.

 

Ich bin gestorben dem Weltgewimmel

Und ruh' in einem stillen Gebiet.

Ich leb' in mir und meinem Himmel,

In meinem Lieben, in meinem Lied.

Friedrich Rückert Ich bin der Welt abhanden gekommen”)

 

 諷刺の批評により記号性に焦点を合わせても、記号自体、前近代と近代では役割が変質している。記号は、近代以前、それを他のものと区別する機能を持っていたにすぎない。それは任意である。しかし、近代以降は記号はその同一性を象徴するようになる。言ってみれば、前近代の記号は「フラッグ(Flag)」であるのに対し、近代のそれは「バナー(Banner)」である。敵と味方を式熱するだけの旗が、国民国家体制では、アイデンティティの象徴となり、それに構成員は忠誠を示さなければならない。

 そこで、花田は楕円を論じる。

 

 円は完全な図形であり、それ故に、天体は円を描いて回転するというプラトンの教義に反し、最初に、惑星の軌道は楕円を描くと予言したのは、デンマークの天文学者ティコ・ブラーエであったが、それはかれが、スコラ哲学風の思弁と手をきり、単に実証的であり、科学的であったためではなかった。プラトンの円とおなじく、ティコの楕円もまた、やはり、それがみいだされたのは、頭上にひろがる望遠レンズのなかの宇宙においてではなく、眼にはみえない、頭のなかの宇宙においてであった。それにも拘(かかわ)らず、特にティコが、円を排し、楕円をとりあげたのは、かれの眺めいった、その宇宙に、二つの焦点があったためであった。すくなくとも私は、ティコの予言の根拠を、かれの設計したウラニエンボルクの天文台にではなく、二つの焦点のある、かれの分裂した心に求める。転形期に生きたかれの心のなかでは、中世と近世とが、歴然と、二つの焦点としての役割をはたしており、空前の精密さをもって観測にしたがい、後にケプラーによって感謝されるほどの業績をのこしたかれは、また同時に、熱心な占星術の支持者でもあった。いかにかれが、星の人間にたいする影響力を深く信じていたかは、決闘によって自分の鼻の尖端(せんたん)を切り落されたとき、その原因のすべてを星に帰し、いさぎよく諦めてしまったという、無邪気な挿話からでもうかがわれる。

 円の跳梁するときもあれば、円に代り、楕円の抬頭するときもある。たとえば、コクトーは、──たしかコクトーであったと思うが、神戸の埠頭で、日本の子供が、きわめて無造作に、地上に完全な円を描くのをみて感動した。それはかれが、そのなにげない子供の一動作に、日本人全体のもつ芸術的天稟のいかなるものであるかをみたからであり、二つの焦点のない、その純粋な心の状態に、讃嘆の念を禁じ得なかったためであろう。かれの観察は、正しくもあれば、また、間違ってもいる。いかにも葛飾北斎(かつしかほくさい)は、定規もコンパスも手にとらず、神戸の子供よりも、もっと巧みに、完全な円を描いたでもあろう。しかし、我々は、──はたして我々もまた、我々の子供や、昔の芸術家のように、苦もなく、見事な円を描き得るであろうか。いまもなお、そういう純粋な心の状態にあるであろうか。我々の描く円は、ことごとく歪んでおり、そのぶざまな形に嫌気がさし、すでに我々は、円をかこうとする気持さえ失っているのではなかろうか。二葉亭の『其面影』の主人公は、苦しげに呟く。

 

 君は能く僕の事を中途半端だといって攻撃しましたな。成程僕には昔から何だか中心点が二つあって、終始其二点の間を彷徨しているような気がしたです。だから事に当って何時も狐疑逡巡する、決着した所がない。

 

 すなわち、これによってみても、我々の魂の分裂は、もはや我々の父の時代からのことであり、しかも私の歯痒くてたまらないことは、おそらく右の主人公が、初歩の幾何学すら知らないためであろうが、二つの焦点を、二つの中心として、とらえているということだ。かれの「狐疑逡巡」や、「決着した所がない」最大の原因は、まさしくここにある。何故にかれは、二点のあいだに、いたずらに視線をさまよわせ、煮えきらないままでいるのであろうか。円を描こうと思うからだ。むろん、一点を黙殺し、他の一点を中心として颯爽と円を描くよりも、いくらか「良心的」ではあるであろうが、それにしても、もどかしいかぎりではないか。何故に、決然と、その各々の点にピンを突き刺さないのであろうか。何故にそれらのピンに、一個の木綿の糸の輪をかけないのであろうか。何故に鉛筆で、その糸の輪をつよく引きながら、ぐるりと回転させないのであろうか。つまるところ、何故に楕円を描かないのであろうか。『其面影』を書いた以上、二葉亭は、この楕円の画法を知っており、不完全ながら、とにかく楕円らしいものの図形を描きあげたが、我々の周囲には、二点の間を彷徨し、無為に毎日をすごしている連中か、二点のうち、一点だけはみないふりをし、相変らず円ばかりを描いている、あつかましい連中かがみあたるにすぎない。転形期における錯乱の痛烈な表現を、また誰ひとりあたえてはいないのだ。自分の魂の周辺が、いかなる曲線を描いているかを示すということは、それほど困難なことであろうか。

 楕円の画法は、比較的簡単だが、楕円そのものの性格はきわめて複雑であり、たとえば「焦点ト呼バレル二個ノ固定セル点ニイタル距離ノ和ガ一定ナルゴトキ点ノ描ク軌跡」というような形式的定義は、楕円のもつ数多の性格のなかの一つを物語るものにすぎなかった。したがって、我々は、或るばあいにいは、弧をその要素に分析、または分割することによって、その曲線上の任意の点における切線により、或いは、その「曲度」により、楕円の性格の一つを表現すべきであった。同様の考え方にもとづき、我々は、楕円を、その対称軸に平行な線を引いて分割し、または中心から引いた多くの直線と円弧とによって分割し、これらの分割線の長さから、楕円の面積をみちびきだし、それにある、他の一つの性格を明らかにすべきであった。すなわち、我々は、或るときには、楕円を点の軌跡とみ、或るときには、円錐と平面との交線と考え、また或るときには、円の正射影としてとらえ、無数の観点に立つことによって、完膚なきまでに、楕円にみいだされる無数の性格を探求すべきであった。惑星の歩く道は楕円だが、檻のなかの猛獣の歩く道も楕円であり、今日、我々の歩く道もまた、楕円であった。

  いうまでもなく楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、依然として、楕円が楕円である限り、それは、醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずることを意味する。これが曖昧であり、なにか有り得べからざるもののように思われ、しかも、みにくい印象を君にあたえるとすれば、それは君が、いまもなお、円の亡霊に憑かれているためであろう。焦点こそ二つあるが、楕円は、円とおなじく、一つの中心と、明確な輪郭をもつ堂々たる図形であり、円は、むしろ、楕円のなかのきわめて特殊のばあい、──すなわち、その短径と長径とがひとしいばあいにすぎず、楕円のほうが、円よりも、はるかに一般的な存在であるともいえる。ギリシア人は単純な調和を愛したから、円をうつくしいと感じたでもあろうが、矛盾しているにも拘らず調和している、楕円の複雑な調和のほうが、我々にとっては、いっそう、うつくしい筈ではなかろうか。ポーは、その『楕円の肖像画』において、生きたまま死に、死んだまま生きている肖像画を示し、──まことにわが意を得たりというべきだが、それを楕円の額縁のなかにいれた。その楕円の額縁は、うつくしい金いろで、ムーア風の細工がしてあり、燭台の灯に照され薄闇のなかで仄かな光を放っていた。  ティコ・ブラーエは、はじめて天界において楕円をみいだしたが、下界における楕円の最初の発見者は、フランソア・ヴィヨンであり、このフランスの詩人の二つの焦点をもつ作品『遺言詩集』は、白と黒、天使と悪魔、犬と猫──その他、地上においてみとめられる、さまざまな対立物を、見事、一つの構図のなかに纒めあげており、転形期における分裂した魂の哀歓を、かつてないほどの力づよさで、なまなましく表現しているように思われる。ティコのウラニエンボルクの天文台は、ヴィヨンのマンの監獄であり、前者が星のきらめく大空のみえる快適な部屋の中で、後者が日の光も射さない地下牢の壁にとりかこまれて、めいめいの思いに耽っていたとき、──おそらく、打開の方策も尽きはててしまった自分の前途に絶望し、まったく意気沮喪していたとき、突然、楕円発見の栄光が、二人をつつんだのである。ひとりは晴れわたった空に、ひとりは湿気を含んだ壁に──すなわち、かれらの前に立ちふさがり、絶えずじりじりとかれらを圧迫しつづけているもののなかに、不意に二つの焦点のある、かれらの魂の形をみいだしたのだ。

 有名なヴィヨンの『心と肉体の問答』の一節は、そのまま、また、ティコの『心と肉体の問答』の一節でもあった。ティコの探求は、主としてその研究費の問題で、絶えず政府との間に確執をおこし、ついにかれは、ウラニエンボルクをしりぞき、ヨーロッパ中をさまよい歩かなければならなかったが、晩年、ルドルフ皇帝の保護により、ようやくプラーグに落ち着くことができた。科学史は、かれの浪費と、かれの偏屈な性格と、政治家など眼中に置かない、かれの傍若無人な振舞について述べる。たしかに、かれは、支配者のむれのなかにあって、始終、いらいらしながら、面白くない毎日をすごしていたようだ。さらにまた、ヴィヨンにいたっては、周知のとおり三界に身の置きどころのない人間であり、盗賊団コキヤアル党の一員としてのかれの生涯が、殺人と、強盗と、飲酒と、恋愛とで明け暮れていったことについては、いまさらここで繰返すまでもない。

 正直なところ、私には、ティコの楕円よりも、ヴィヨンの楕円のほうが、難解ではあるが、新鮮な魅力がある。それは詩学が、天文学ほど、常識化されていないためであろうか。それとも下界の風景が、私の身近にあるためであろうか。或いはまた、私の性質が、大いに無頼であるためであろうか。ひとは敬虔であることもできる。ひとは猥雑(わいざつ)であることもできる。しかし、敬虔であると同時に、猥雑でもあることのできるのを示したのは、まさしくヴィヨンをもって嚆矢とする。なるほど、懺悔の語調で、猥雑について語ったものはあった。嘲弄の語調で、敬虔について語ったものもないではなかった。とはいえ、敬虔とか猥雑とが、──この最も結びつきがたい二つのものが、同等の権利をもち、同時存在の状態において、一つの額縁のなかに収められ、うつくしい効果をだし得ようなどとは、いまだかつて何びとも、想像だにしたことがなかったのだ。表現が、きびしい調和を意味するかぎり、こういう二律背反の状態は、すこぶる表現に適しない状態であり、強いて表現しようとすれば、この双頭のヘルメスの一方の頭を、断乎として、切り捨てる必要があると考えられていた。ヴィヨンはこれらの円の使徒の眼前で、大胆不敵に、まず最初の楕円を描いてみせたのである。

 転形期は、ヴィヨンの魂を引き裂いた代償として、かれに、こういう放れ業を試みることを許したが、キリスト教的ルネッサンスが、次第に異教的ルネッサンスに移っていくにつれ、楕円の描き手もまた、ついに後を絶った。それでもなお、ヴィヨンに次いであらわれたナヴァルの女王マルグリットの『エプタメロン』には、特にその七十二の物語(コント)の組みたて方において、敬虔と猥雑との共存がみられ、堅固な信仰と放恣な肉慾という二つの焦点にもとづき、楕円らしいものの形が描かれているかのようだ。たとえば、死をもって貞操をまもった騾馬引きの妻の話の次には、ナポリ王が貴族の妻を誘惑したが、やがてその貴族に自分の妻を誘惑されるにいたった話が並んでいる。しかし、この作者の本音を、かの女の代弁者であるらしい作中人物パルラマントの口吻から察すれば、むしろ、かの女は、二つの焦点の解消、焦点と中心との一致を望んでおり、—すなわち、完全な円を描きたがっており、かくべつ収拾のつかないほどの、分裂した魂の所有者でもなかったらしい。もしも『遺言詩集』の詩人が、この物語を読んだならば、そういう聡明な女王の生ぬるさに愛想をつかし、恋人を河に投げ込んで殺す癖のあった、昔の蒙昧な女王のはげしさを、なつかしく思いおこしたでもあろう。

 

 さらに

 ブリダンを袋に封じ

 セーヌに流せし

 女王いずこ

 さあれ

 去年の雪いまいずこ

 

 ここにいうブリダンとは、「ブリダンの驢馬」で有名な、あのブリダンである。水槽と秣桶との間におかれても、驢馬なら、断じて立往生することはあるまいが、屡々、人間は立往生する。これらの二つの焦点の一つを無視しまい。我々は、なお、楕円を描くことができるのだ。それは驢馬にはできない芸当であり、人間にだけ、──誠実な人間にだけ、可能な仕事だ。しかも、描きあげられた楕円は、ほとんど、つねに、誠実の欠如という印象をあたえる。諷刺だとか、韜晦だとか、グロテスクだとか、—人びとは勝手なことをいう。誠実とは、円にだけあって、楕円にはないもののような気がしているのだ。いま、私は、立往生している。思うに、完全な楕円を描く絶好の機会であり、こういう得がたい機会をめぐんでくれた転形期にたいして、心から、私は感謝すべきであろう。白状すれば、──時々、私もまた、昔の蒙昧な女王の恋人になりたくなる。そうなってしまいさえすれば、やがて女王は、私の立往生を、ほんとうの往生に変えてくれるでもあろう。しかし、そのばあい、私の描くであろう波紋は、円であって、楕円ではないのではなかろうか。

 

 さあれ  去年の雪いまいずこ

(花田清輝『楕円幻想―ヴィヨン―』)

 

 ジャン・コクトーは東アジア人の模倣能力の高さに驚嘆していたわけだが、これは、最近でも、東アジアを訪れた西洋人が漏らす感想である。ハーバード大学の認知心理学者ハワード・ガードナーは、『心を開く』(一九九二)の中で、北京でのエピソードを紹介している。小学生が水墨画の手本を見て、竹や金魚、鶏をその通りに再現するが、それは、アメリカでなら美術を専攻する高校生でさえ少数というレベルだと驚いている。その上で、ガードナーは、シカゴ大学の教育学者フィリップ・ジャクソンの「模倣的様式(Mimetic Mode)」=「変容的様式(Transformative Mode)」に触れ、相互に学びあう必要があると述べている。アジアの教育は「知識・技術の獲得」を目指す「模倣的様式」であり、他方、欧米の場合、それは「アイデンティティの確立」を目標とする「変容的様式」である。いずれにも長短があり、その点を生かす方法を探るべきである。ガードナーは、近いうちに、両者の統合を理論化した『扉を開く』を出版すると末尾に記しているが、いまだに刊行されていない。もっとも、模倣と変容は諷刺の中ですでに融合している。

 「円の亡霊」、すなわち一元的・単線的な思考に対し、花田は楕円のような二元的・曲線的な思考をぶつける。いわゆる吉本=花田論争は円と楕円、あるいは近代主義と脱近代主の対決と考えるべきである。この一件を契機に、批評の中心は花田から吉本隆明へと移ったが、それは時代の風潮の現われにすぎない。批評において六〇年代は吉本の時代である。それはコペルニクス的転回が円から楕円の天体モデルの転換ではなく、地球中心から太陽中心への変更と思うことと同じくらいに、本質を欠いた認識である。

 天動説から地動説の真の意義はどちらが中心として回っているかではない。円から楕円への転換こそが本質的な展開である。天動説の成立は、本来、キリスト教とは関係ない。それは、花田が言及している通り、キリスト教が誕生する前の古代ギリシアの学説である。紀元前二世紀、ヒッパルコスがアポロニオスが確立した周転円=離心円体系の理論を援用し、彼自身の観測データに基づいて太陽と月の運行を説明する。これが天動説の原型である。それをローマ時代のギリシア人天文学者クラウディオス・プトレマイオスが、紀元二世紀に、他の学説なども取り入れ、『アルマゲスト』に集大成している。彼はすべての惑星の運行を一様な円運動を組み合わせて説明する。それはかのプラトンの描いた宇宙像でもある。その後、キリスト教会がこの古典時代の英知を結集した天動説を採用している。

 一〇〇〇年以上もの間、教会の圧力によって天動説が信じられてきたと考えるとしたら、それは近代以前の天文学がいかなるものであったかを知らないだけである。

 天文学は、必ずしも、抽象的な学問ではない。極めて具体的で、日常生活に不可欠なものの作成を任されている。それは正確な暦である。暦の制定は、権力者にとって、時を支配することを意味する。世界各地の文明で天文学は研究されており、中でも、最も正確な天文学に関する知識を持っていたのはマヤ文明だと見られている。

 プトレマイオスに従えば、比較的容易に、精度の高い暦をつくることが可能である。プトレマイオスのモデルの優れている点は「1年の長さおよび春分の日から夏至までと夏至から秋分の日までの日数の長さがわかるだけでモデルの本質的な仕組みのすべては定まってしまうことにある。三角関数の性質を使うだけで比較的簡単に決定できるのである。そのモデルによって、太陽がいつどこに位置するかを計算して予測することができる。こうして実際上ほぼ申し分なく、太陽の動きの仕組みを理解し、太陽の未来の動きを予測できるようになったのである。このモデルは大成功であった。なお、このモデルによると、1日の長さが、すなわち、太陽の南中から翌日の南中までの長さが日によって異なることさえわかる」(丹羽敏雄=長岡亮介『数理モデルとカオス』)。暦としての不備が実用上問題なかったために、天動説はキリスト教世界で支持されていく。

 プトレマイオスの天体運行モデルは、数学的に、極めて高度で、完成度が高い。このモデルを作成しようとすると、当時まだ整備されていない三角関数の知識が必要であるが、プトレマイオスはその正弦関数の値を導き出している。三〇度や四五度、六〇度、九〇度といった平易なものだけでなく、正五角形を利用して七二度の値も求めている。

 他方、一六世紀のニコラウス・コペルニクスの地動説は、数学的に見れば、プトレマイオス・モデルに遠く及ばない。古代文明は川の流域だけでなく、晴天の日が多く、天体観測が比較的容易な地域で発達している。一方、内陸ヨーロッパは、曇り空の日も少なくなく、星の運行を調べるのが難しい。おまけに、彼の太陽中心説は、村上陽一郎の『新しい科学史の見方』によると、「神が世界創造にあたって最初に造り、しかも世界の万物を(神の愛がそうであるのと同じように)やさしく暖め、明るくさせる『神聖なランタン』としての太陽を、神は宇宙のどの位置に置いたと考えられれば合理的か、という問いを立てていました」。コペルニクスはマルシリオ・フィチーノの太陽崇拝的な思想から影響受けている。太陽を神格化することは、理論の妥当性以前に、キリスト教会としては認められない。当然、教会はフィチーノならびにコペルニクスの説を異端として禁止する。コペルニクスの地動説への教会の非難において、地球が中心かそれとも太陽が中心かなど二次的なものにすぎない。

 天動説を乗り越えたのは、「コペルニクス的転回」と言うものの、一七世紀のヨハネス・ケプラーである。彼は、膨大な観測データを計算し、惑星の軌道が円ではなく、楕円であることを発見する。天動説の大前提は惑星軌道が円だということである。それが覆ったとすれば、天動説はその正当性を失う。楕円の惑星軌道に基づく天体の運行モデルとして地動説が天動説の地位を奪うことになる。ケプラーによって、キリスト教神学どころか、ギリシア=ローマ以来の認識が転倒されたのである。

 天動説から地動説への真のパラダイム・シフトは惑星軌道が円から楕円に変わったという点である。地球の周りを太陽が回っているのか、太陽の周りを地球が回っているのかは、それと比べれば、大きい問題ではない。

 花田の批評には円から楕円への転倒という極めて本質的な認識を含んでいたにもかかわらず、その芸は虚実から捉えられがちである。森毅は、『時代と虚構』において、花田が愛用し、そのモットーだったとされる「芸というものは、実と虚との皮膜の間にある也」について、次のように批判している。

 

 花田は、外延的な構図を提示することが多く、虚と実にせよ、作家と批評家にせよ、対立する二つの世界に境界に遊んでいるかに思われている。たしかに、ぼくの花田ごのみも、そうした境界好みと関係があるかもしれない。

 しかしながら、境界とはなんだろう。数学で境界と訳されることばに、バウンダリーとフトンチアの二種類があることに、ぼくはこだわってみたことがある。

 バ産んだりーのほうは、自律した一つの世界があって、その世界を規定する異次元のものである。これにたいしてフロンチアは、世界が二つに分割されていて、その境目として現われる。一方の内部から見れば、他方は外部であって、これは容易に逆転できて、外から見れば、いままでの内が外部になる。内と外は同一平面上にある。ところがバウンダリーだと、そもそも一つの世界であって、外部は超越的にしかなく、そこに異次元の境界が現われる。

 外延的に絵がえがかれるとき、対立的な概念が交換可能に同一平面上にあるかのように見える。作家と批評家にせよ、あるいは虚と実にせよ、とりかえることは容易だ。そこで、虚と実をすりかえる、花田の手づまの腕に魅せられるわけ。しかしながら、それは芸というよりはケレンに属する。

 皮膜というと、内なる現実があって、外に虚構を対置させると、その境界に皮膜があるかのように見える。虚が実となったり、実が虚となったりするのは、皮膜を超えて浸透するから。しかしながら実は、この双方こそが現実であって、その現実を書き割りにしただけではないか。たかが背景にすぎぬものに目くらましされているのも、つまらない。

 たしかに、現実を生きるには、皮膜はこたえられぬ場所だ。虚と実の双方に接することができる。二つの世界がせめぎあうスリルもある。一方の世界だけに安住したがる連中をせせら笑うこともできる。処世術としてなら、なかなかよろしい。ぼくもまた、処世術として便利している。しかしながら、たかが処世術にすぎぬものを、芸道というほどのこともないではないか。

 そしてなにより、それだけのことなら、なにも小説にする必要もないわけだ。

 

 花田を考察する際、誰よりも、まず森毅を読まなければならない。花田の軌跡を知るには他の論考も役に立つが、森毅以上に彼を本質的に読みとり、そのパロディとも思える文体を通じて、完璧に批評しているものはいない。

 

 ルネッサンスという言葉が、語源的には、フランス語のrenaître(ルネートル)からきており、〈再生〉を意味するということは、周知のとおりだ。したがって、我々はルネッサンスを、つねに生との関聯において考えるように習慣づけられており、この言葉とともに、中世の闇のなかから浮びあがってきた、明るい、生命にみちあふれた一世界の姿を心に描く。しかし、再生が再生であるかぎり、必然にそれは死を通過している筈であり、ルネッサンスの正体を把握するためには、我々は、これを死との関聯においてもう一度見なおしてみる必要があるのではなかろうか。

(花田清輝『球面三角─ポー』)

 

 生の観点から捉えられているルネサンスを死へと転倒する。死と生の弁証法的止揚を描く。しかし、それはフリードリヒ・ニーチェの『悲劇の誕生』におけるアポロ=ディオニュソスの図式の変奏にすぎない。二項対立の入れ替え、ないし転倒として花田のレトリックを読むのは恥ずかしいほどに素朴であり、慣性の法則と言い訳できないまでに惰性に乗っかっている。

 花田の試みは近代的自意識、すなわち一元的な「私」に対する批判である。近代の窮屈さを近代以前の多元的な「私」を想起させる。それは「私」の原点である。花田は意識の流れを作品に自由連想させる。彼において、自律的であるはずの小説は他律的であるし、他律的であるはずの批評は自律的である。小説なのか批評なのかは決定不能である。花だが何を表現したいのか読者にはつかむことができない。彼の諷刺の批評は無意識を表象していると言うほかない。それはまるでグスタフ・マーラーの交響曲である。

 グスタフ・マーラーの交響曲は器楽と声楽が融合し、その壮大な構成や華麗な旋律、精緻な管弦楽法は近代西洋音楽の一つの到達である。

 クラシックは絶対音楽と標題音楽の二種類に大別できる。前者は曲の外部に構成原理を置かない自律的音楽である。一般的に、交響曲はこれに含まれる。後者は曲の外部に構成原理を求める他律的音楽である。歌詞を伴うオペラはそうしたプログラム・ミュージックに属している。

 ところが、マーラーの交響作品は自律的とも他律的とも言えない。確かに、作品の部分に聞き入ると、何らかの描写を感じるが、全体としては、統一したプログラムのテーマに欠ける。その一因としては器楽曲である交響曲に声楽を導入している点が挙げられる。ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第九番に前例があるが、そこには理念が貫通している。しかし、マーラーの場合、何を表現したいのかがわからない。マーラーは数多くの歌詞を引用している。ドイツ民謡の『魚に説教するパドヴァの聖アントニウスの(Des Antonius von Padua Fischpredigt)』や『子供の不思議な角笛(Des Knaben Wunderhorn)』、フリードリヒ・リュッケルトの『私は世間に忘れられ(Ich bin der Welt abhanden gekommen)』、フリードリヒ・クロプシュトックの『復活(Die Auferstehung)』、フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストゥラはかく語りき(Also Sprach Zarathustra)』、李白の『春日酔起言志(Der Trunkene im Frühling)』などが縦横無尽に歌われる。民謡から低俗な唄、ファンファーレ、先人の高尚な楽曲までをモチーフとし、森の動物の鳴き声や角笛などをありとあらゆる風景の音を音楽に変え、以前の自作曲をパロディとして導入する。独唱、混唱、合唱と詰めこみ、楽器や編成も自由奔放にとり入れる。とうとう交響曲第八番に至っては、「千人交響曲」とまで呼ばれている。マーラーの交響作品はメニッポス的諷刺そのものである。マーラー自身は表題をつけて創作を始めるけれども、途中で、そこから食み出し始め、結局、それを放棄してしまう。晩年、マーラーはジクムント・フロイトの精神分析を受けて、なぜそうなってしまうのかの理由を初めて知る。彼は無意識を曲にしていたのである。

 

 ──人情にまみれ、繁文縟礼にしばられ、まさに再組織の必要なときにあたって、なおも古い組織にしがみついている無数のひとびとをみるとき、はたして新しい組織の理論を思わないものがあるであろうか。さらに又、再組織された後の壮大な形を拙いてみせ、その不能性を照明されると、たちまち沈黙してしまうユトピストのむれをみるとき、問題の提起の仕方を逆にして、まず組織の条件の探求を考えないものがあるであろうか。かれらの人間性を無視して、かれらにむかつて突撃したい街動を感じないものがあるであろうか。緑いろの毒蛇の皮のついている小さなナイフを魔女から貰わなくとも、すでに魂は関係それ自身になり、肉体は物それ自身になり、心臓は犬にくれてやった私ではないか。(否、もはや「私」という「人間」はいないのである〉。

(花田清輝『群論─ガロア』〉

 

 ギリシア神話はプロメテウスとエピメテウスの兄弟を物語っている。兄の名前には「前に考える」、弟には「後に考える」という意味がある。プロメテウスは人間に火を与え、エピメテウスはパンドラの箱を開ける。意識の流れに沿って、無意識を自由連想的に曲へと紡ぎ出すマーラーの交響作品はこの兄弟の二面性がある。それこそ諷刺の特徴にほかならない。

 マーラーの交響曲は決定不能の状態に置かれている。それは、ウィーンで研究生活に入ったクルト・ゲーデルの不完全性定理を体現している。

 野崎昭弘の『逆説論理学』によると、マーラーの死の二〇年後にあたる一九三一年、ゲーデルは次の結果を証明する。

 

自然数の理論を形式化して得られる公理系においては、その公理系が無矛盾である限り、次のような論理式Aが存在する。

 論理式Aはその公理系から証明できない。

 「Aでない」ことを意味する論理式も、その公理系から証明できない。

 

自然数論を含む公理系の中では、次のように解釈できる論理式Hを作ることができる。

 その公理系は無矛盾である。

 そしてこの公理式Hはその公理系が無矛盾であるときは、決定不能である。

 

 不完全性定理は自己言及性のパラドックス──「彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。『クレタ人はいつも嘘つき、悪い獣、怠惰な大食漢だ』(『テトスへの手紙』一章一二節)──に類似している。発表者自身もそれを利用して説明している部分もあるが、両者には違いがある。前者においては、自然数の理論を形式化して得られる公理系では、その公理系が無矛盾である限り、公理系が無矛盾であるときには、「それが無矛盾である」ことを表わしている論理式も、その否定も、理論の中では決して証明できない決定不能である命題が存在する。一方、後者では、「『……嘘ではない』が証明可能」と仮定しても矛盾、「『……嘘である』が証明可能」と仮定しても矛盾であるわけだから、そこには証明不可能という余地が残されている。これはパラドックスではない。不完全性定理は証明可能=不可能の決定不能である命題の存在を告げているのに対して、自己言及性のパラドックスは命題の証明可能=不可能にかかわる議論、すなわち不可能の証明である。

 ダグラス・R・ホフスタッターは、『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の中で、クルト・ゲーデルの不完全性定理をヨハン・セバスチャン・バッハに適用したが、むしろ、それはマーラーにこそ適当である。マーラーの交響作品を通じて不完全性定理を描き出すべきである。

 「マーラーの音楽を、『描写音楽』のように、何かを〈表現〉しようとした作品と捉えるのは誤りである。彼は、自らのうちにあるNatura naturansの力に身をゆだねて作曲の筆を進めた。その結果に何らかの『表現意図』を求めることは,同じNatura naturansの所産である。たとえば、火山の山容や大瀑布の光景に何らかの『表現意図』を求めるのと同じく、無意味な行為であろう」(笠原潔『西洋音楽の諸問題』)。花田を読むことはマーラーを聴くことと似ている。花田は「自らのうちにあるNatura naturansの力に身をゆだねて作曲の筆を進めた」。無意識を自由連想的に仕上げられた作品を「何かを〈表現〉しようとした作品と捉えるのは誤りである」。

 

(Chor und Sopran)

Auferstehn, ja auferstehn, wirst du,

Mein Staub, nach kurzer Ruh.

Unsterblich Leben wird,

der dich rief, dir geben.

Wieder aufzublühn wirst du gesät!

Der Herr der Ernte geht

und sammelt Garben

Uns ein, die starben.

 

(Alt Solo)

O glaube, mein Herz, o glaube

Es geht dir nichts verloren!

Dein ist, dein, was du gesehnt.

Dein, was du geliebt, was du gestritten!

 

(Sopran Solo)

O glaube,: du wardst nicht umsonst geboren!

Hast nicht umsonst gelebt, gelitten!

 

(Chor und Alt)

Was entstanden ist, das muß vergehen.

Was vergangen, auferstehen!

Hör auf zu beben!

Bereite dich zu leben!

 

(Sopran und Alt Solo)

O Schmerz! du Alldurchdringer!

Dir bin, o Tod! du Allbezwinger,

ich entrungen!

Nun bist du bezwungen!

Mit Flügeln, die ich mir errungen,

in heißem Liebesstreben werd ich entschweben

Zum Licht, zu dem kein Aug gedrungen.

 

(Chor)

Mit Flügeln,die ich mir errungen

Werde ich entschweben.

Sterben werd ich, um zu leben!

Auferstehn, ja auferstehn wirst du,

mein Herz, in einem Nu!

Was du geschlagen,

zu Gott wird es dich tragen!

(Friedrich Klopstocks und Gustav Mahler Die Auferstehung")

 

 花田の批評はマルクス主義と精神分析を弁証法的に止揚している。マルクス主義と精神分析の融合はエーリッヒ・フロムからドゥルーズ=ガタリに至るまでさまざまに試みられている。その際、キーとされてきたのが「欲望」である。しかし、花田はそれから考察を始めない。「欲望」は、近代的=一元的な所有権により基礎付けられた制度の上に構築された資本主義体制の中で、再生産されている。近代的一元性の窮屈さを前近代的な多元性によって相対化させ、脱近代へと至らせる。多元的主観が近代によって一元化されたが、多元的主観こそが主観の原点である。近代が忘却し、抑圧してきた前近代を精神分析的に思い出させ、それをマルクス主義的に諷刺として生かす。これが花田の諷刺の批評の方法論である。

 

 転向ということが問題になるたびごとに、いつも私はコペルニクスの名を思い出す。これはおそらく、昔、学校でおそわったカント哲学の記憶のためにちがいない。()何故か私には転向といえば、つねに堂々たるコペルニクス的転向のことを指すべきであり、誰でもがする現在の転向は、断じて転向という言葉によって呼ばるべきではないような気がするのだ。() 我々の転向が凄惨な闘争のはてにうまれた、いわば好余曲折をへた結果の改宗であり、したがって、多かれすくなかれ、悲劇的な色彩を帯びているのに反し、十六世紀の孤独な転向者──最初の転向者コベルニクスの転向は、あくまで朗然たる転向であり、しかもそれは不思議なことに、闘争の拒否の上に立って、人目につかず行なわれたのだ。

 

 コペルニクス的転向を敢えてしたかれは、人間的であると同時に、非人間的でもあった筈だ。そうして、絶えず我々の念頭にうかべていなければならないのは、闘争を拒否するかにみえるかれが、すこしも闘争を放棄してはいないという事実だ。() そうして、闘争の仕方にはいろいろあり、四面楚歌のなかに立つばあい、敵の陣営内における対立と矛盾の激化をしずかに待ち、さまざまな敵をお互いに闘争させ、その間を利用し、悠々とみずからのカをたくわえることのほうが──つまり、闘争しないことのほうが、時あって、最も効果的な闘争にまさるものであることを、はっきりとかれは知っていたと思うのだ。

(花田清輝『天体図─コペルニクス』)

 

 「砂のペルソナ」と絓秀実は花田清輝を呼ぶ。この「砂」という比喩は花田清輝にふさわしい。と言うのも、それは非線形現象としてわれわれの前に現われるからである。砂を静かにサラサラと落としていくと、砂山ができていく。けれども、ある高さに達すると、山肌から砂粒が転がり落ち、それ以上大きくならない。これは自己組織的臨界状態の典型である。この日線形の世界は二〇世紀において顕在化した世界である。

 砂は粉粒体である。粉粒体は、神保元二の『粉体の科学』によると、「固体が細分化され、かつその各部分が相互に拘束され合わない存在形態」、「確率統計的特性」、および「表面特性が全体の挙動に対して支配的」という三つの条件を持っている。粉の運動は変化の点では連続であるが、層になるという点では非連続である。細かな砂は限りなく粉に近い。粉は、筒の中では、角運動量が保存されながら、摩擦力によって最後に入れた粒子が最初に出ていくラストイン・ファーストアウト現象がある。古代エジプトでは、この現象を利用して、ピラミッドの泥棒よけを用意しているさ。さらに、粉は加工が容易で、強固な塊にも、液体に近い状態を作り出せる。粉は反応しやすく、光の波長の違いにも鋭く反応してしまうだけでなく、炭塵爆発を起こす危険性を秘めている。

 砂は流れるとき、液体に準じている。液体は非線形・複雑系であり、解析しにくい。固体は非常に狭い範囲でわずかに振動する程度なので解析するのはたやすいし、気体の場合は、ニュートン力学に統計力学を加えれば、可能である。液体はつかみどころがない。「自由のイメージは、自分勝手に一人で飛んでいける気体かもしれない。時々他の分子にぶつかったりするが、基本はやはり一人で飛んでいくほうだ。ところが、ぼくの中の自由のイメージは液体なのだ。時代とか社会とかがっちりした構造の間を、現実という液体が流れていく。液体というのは面白いもので、必ず隣に分子がいる。気体と違って、自分一人ではない。しかもそれが常に入れ替わる。隣は必ずいるが、いつも同じ相手ではない。そんな中で岩にぶつかって渦ができたり、滝として流れ落ちたり、結構いろんなドラマが生まれる。それが〈液体の自由〉のイメージだ」(森毅『「自由人」は液体のように』)

 花田の批評はこうした「砂」として時代に流れ続ける。花田は、一九五〇年代に、マスメディアやポップカルチャーの意味を理解している。デイヴィッド・リースマンやダニエル・ブアスティン、マーシャル・マクルーハンといった同時代のアメリカの社会学者と同様の思考を彼らと無関係に語っている。彼はこの観点からもさらに読み直される必要がある。消費社会として未発達であるにもかかわらず、花田は。諷刺を書くには高度なリテラシー能力が要求されるが、諷刺批評家はそれによって時代の意味を読み解くことができる。絵画には絵画のリテラシーがあり、演劇には演劇のリテラシーがあり、映画には映画のリテラシーがあり、テレビにはテレビのリテラシーがある。花田はそこから批評する。政治のアヴァンギャルドと芸術のアヴァンギャルドを統一するために、活動に勤しんでいる。それはモダニズム的な「運動」である。しかし、実際には、時代の潮流に対する生きられたパロディにほかならない。モダニズムのパロディとしてのポストモダニズムを最初に感受していたのが花田清輝である。

 

 いまだに芸術は、芸術運動のなかからうまれると信じきっている馬鹿が、馬鹿の生涯で、いちばん、馬鹿にてっしていたさいの記念である。

(花田清輝『復興期の精神』新版あとがき)

 

 二〇世紀後半、ゲリラ戦、すなわち非対称戦争が主流となる。冷戦下であろうと、ポスト冷戦下であろうと、その状況は代わらない。ベトナム戦争には、古典的な意味での前線は存在しない。「前衛」は効力を失う。芸術も一方向へ進む運動ではなく、多方向へ拡散していく現象である。また、アカデミズムでも、諸領域は行きづまりを見せ、それを打開するために、学際的研究が本格化する。線形を基盤にして形成されてきた科学は、非線形を前に、再構築が促される。横断や越境それ自体に何らかの意味があるわけではない。花田は拡散する批評を書いている。それは批評であると同時にと小説であり、批評であると同時に小説である。花田は時代の流れの力に委ねて筆を進める。時代の流れは日線形の乱流である。層流ではない。多くの人は、層流に乗ることはやぶさかではないが、時代に流されることを嫌う。それは数値シミュレーションはできるが、どこにいくかわからないし、溺れてしまう危険性もあるからだ。

 

 考えてみれば、花田はいつも、時代に生きていた。時代にはなやいだというのではない。時代を見すえていたというのでもない。時代に流れていたということ。おや、それでは、だれだって時代に生き、時代に流れることに変わりはないではないか。

 いや、そうではない。たいていの人は、時代をこわがったり、きらったりする。時代に生きるからには、その時代と寝なきゃつまらない。しかしながら歴史は浮気女だから、必ず寝た男を裏ぎる。でも、裏ぎられることぐらい覚悟しなくては、時代と寝ることはできぬ。

(森毅『時代と虚構』)

 

 しかし、花田は「裏ぎられることぐらい覚悟し」、「時代と寝る」。時代的、あまりに時代的なことは永遠、あまりに永遠である。Musik!

 

(Alt Solo)

O Mensch! Gib acht!

Was spricht die tiefe Mitternacht?

Ich schlief!

Aus tiefem Traum bin ich erwacht!

Die Welt ist tief!

Und tiefer noch als Herzeleid!

Tief ist ihr Weh!

Lust tiefer noch als Herzeleid!

Weh sprich; Vergeh!

Doch alle Lust will Ewigkeit

Will, tiefe, tiefe Ewigkeit!

 (Friedrich Nietzsche Also Sprach Zarathustra”)

(了)

 

参考文献

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『もう一つの修羅』、講談社文芸文庫、一九九一年

『恥部の思想』、講談社文芸文庫、一九九一年

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『近代の超克』、講談社文芸文庫、一九九三年

『花田清輝評論集』、岩波文庫、一九九三年

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クリストファー・ヒル、『十七世紀イギリスの宗教と政治―クリストファー・ヒル評論集〈2〉』、小野功生訳、法政大学出版局、一九九一年

クリストファー・ヒル、『十七世紀イギリスの民衆と思想―クリストファー・ヒル評論集〈3〉』、小野功生他訳、一九九八年

クリストファー・ヒル、『十七世紀イギリスの急進主義と文学―クリストファー・ヒル評論集〈4〉』、小野功生他訳、一九九七年

ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』上下、宇野邦一訳、河出文庫、二〇〇六年

 

DVD『エンカルタ総合大百科2006』、マイクロソフト社、二〇〇六年

Project Gutenberg

http://www.gutenberg.org/wiki/Main_Page

Gustav Mahler Vereinigung

http://www.gustav-mahler-vereinigung.de/index.html

 

 

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